江口 彰 Laboratory

分野は、“教育” “映画” “まちづくり”。次世代への取組みを分かりやすく考えてみる。

コミュニケーションの学習機会を考えたときの壁

Posted on | 9月 3, 2011 | コミュニケーションの学習機会を考えたときの壁 はコメントを受け付けていません。

札幌の地域づくりの仕事活動のなかで、特に地域や街の劇場で働く人との関わりが増え2年あまりが過ぎました。札幌市では琴似の「コンカリーニョ」中島公園の「シアターZOO」、士別市朝日町では「サンライズホール」などに出入りし色々と企画を手伝ったり、見に行くことがあります。そのなかでよく言葉に上がるのは「演劇を通じたコミュニケーション教育」という分野です。これは特に新しいものではなく再定義されているところで、平田オリザ氏が内閣参与になり政策として打ち出したことが、大きな影響をもたらしているところでしょう。

先月、主に小中学校の先生に対する演劇ワークショップと題した、子どもたちへ学習発表会の指導方法に対するレクチャー及び相談会を行いました。コンカリーニョの斉藤ちずさんを中心に組み立ててみた試みです。小学校の先生は一コマ45分を約10回繰り返して、学習発表会で演じる舞台を企画し演出します。自分の子どもの頃は学芸会と呼ばれていたものが、いつの間にか学習発表会という名前に変わっており、しかしながら求められている内容や準備のプロセスは変わっていない様子です。それでも今回の演劇講師陣は、演劇と発表会を明確に区別し、その表現方法の細かな違いなどもふくめてレクチャーしていました。自分も小学生の頃学芸会(お芝居)で舞台に上がった経験があります。練習時間の確保や指導準備にかける先生側にたってみると、専門的な知識や学ぶ機会も得られたことがない小学校の先生が身振り手振りの少ない経験だけで行なっていたんだろうと思いますし、自分の母親が保育園の発表会の準備で幼児にお遊戯を指導するために、自宅で踊っていたことを思い出します。そういった意味でも、この分野にプロやセミプロとして普段から演劇活動を中心としている人との関わりのなかでカリキュラムを作り上げていく過程は、大きな意味を持つと思います。

さて、コミュニケーション学習の分野を考えてみますと、上記のように特に表現力や他の人を演じてみるという客観的な視野(自分以外の立場)を広げるための手段として多くの実践がされているなかで、その他の分野でもコミュニケーションを学習する機会は多岐にわたって行なわれています。主な業界としては、ビジネスや就職活動においてが一般的で身近であると思います。この分野でコミュニケーションスキルの話題には事欠きません。外国語(特に英語)といった言語を活用できるスキルから、就職活動中の面接対策、パワーポイントを駆使したプレゼンテーション能力、組織マネジメントにおけるリーダーシップ、商品の購買意欲や行動を起こさせるマーケティングの分野など、言語学から経営学にわたりこれらの事象について多くのセミナーが開催されています。

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また、自分のライフワークとしてこれまで活動してきた映像制作系にもコミュニケーション分野があります。映像をつくる、みる、感じる、そしてメディアリテラシーといった報道や情報という分野におけるコミュニケーションもあります。情報分野になるとITなどテクノロジーとの隣接点が出てくることにもなり、近年のSNSといったインターネット上のコミュニケーション分野にも広がりがあります。

さらには、地域活動における町内会や商店街などコミュニケーションの場づくりといったキーワードでコミュニケーションを語る人もいます。この場合は昔でいうところの“寄り合い”機能を意味し、核家族化、少子高齢化なども複雑に絡んでいる地域社会の問題解決アプローチとして出てきます。よく“コミュニティビジネス”などという枠組みで語られる場面で出てくることが多いようです。

これらの現象や事象に直接関わったり企画する側になったりして感じることは、それぞれの分野を総合した意味でのコミュニケーションを考える人や語る人にほとんどお会いしたことがないということです。同じコミュニケーションという言葉を使っていますので、それぞれの共通的な普遍性があるからこそコミュニケーションというある意味便利な言葉を多用すると思うのですが、それがそもそもなぜなのか?よく分かっていないという印象があるのです。時々聞くセリフとして、「結局はコミュニケーション不足ですね」といったように片付けてしまうような場面に出会わす機会を多く経験してきました。しかしながら、コミュニケーションとは何かを深く考察しようというところには、なかなか行き着かないのが現状でしょう。

確かに、ここから先の思考は難度が高いと思います。当たり前のことを説明するほど難しいことはありません。もちろんこれらを考察している研究者は全国や世界にはおりますが、それほど大人数ではありませんでしょうし、一般的にはまだ注目されていないと思います。しかもさらに説明できるということよりも、様々な分野や場面で結果を導くべきところまで進める必要性がありますから、別の意味でもさらに難しいと思います。ですから専門知識と実践的な持論と呼ばれる現象との接点を繋ぐという、まさにここにもコミュニケーションの分野が隠れていますが、そこを突破しながら多くのコミュニケーションの実践される場の中で、次の一歩を踏み出すことを行なわないとならないと思います。これらは難度だけではなく時間という資源も必要になるでしょうし、最も強く感じる壁だと思っています。

徳丸理事長になろう(映画『コクリコ坂から』より)

Posted on | 8月 18, 2011 | 徳丸理事長になろう(映画『コクリコ坂から』より) はコメントを受け付けていません。

昨日(17日)、子どもたちを放射能から守る福島ネットワークが主催で「子どもの声を政府に届けよう!」が開催されました。その模様が、俳優の山本太郎さんの動きがきっかけなのでしょうか、ニュースとして流れています。

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子どもたちからは「福島県民よりもお金が大切なんですか?」「福島の子どもたちは、プールにも入れません。マスクをして、登下校をしているのに、基準値を何十倍も引き上げて、どうして安全と言えるんですか?」「こんなことになった、原発がわたしは大嫌いです」子どもたちから向けられるなか横一列に並んだ内閣府、文科省、保安院の10名の“おとな”たちは、うつむくばかり。(シネマトゥデイより一部抜粋

子どもの教育を考えるためにはどうしたらいいのでしょうか。日頃、日本各地の教育現場などで試行錯誤されているさなか、このような“おとな”の態度が報道で流れると、一気にトーンダウンし、子どもには悪影響を与えているでしょう。今の子どもたちや若者問題は、このような大人社会の態度からもたらされているのではないか、そう思う事態が多くあります。

現在上映中の映画『コクリコ坂から』のなかにその真逆と取られる態度を示す大人「徳丸理事長」が登場します。内容に触れるとネタバレになってしまいますので、是非作品を見て確認してほしいのですが、忙しいさなかアポなしの名も知らない高校生に時間を割いてよく聞きすぐに動くその態度を、主人公たちは「こんな大人もいるんだな」と部屋をあとにします。

これまで私は活動家として様々な社会人といわれる“おとな”に出会ってきました。それらの方々は、上記のような霞ヶ関の大人なのか、徳丸理事長タイプなのか、それでない違ったタイプなのか。残念ながら、徳丸理事長タイプの遭遇率は低いのではないでしょうか。そのような感想を持っています。今の子どもが大きくなって逆の立場になったら、徳丸理事長のように未来の子どもたちを相手することができるタイプの人間になるのでしょうか。そこも気になるところです。

こういったことは近年多発している現象なのでしょうか。それともメディア等の情報技術やインフラが整備されたので、明るみになっただけなのでしょうか。映画『コクリコ坂から』の1960年代前半に「こんな大人もいるんだ」という表現からしても、当時から珍しいのかもしれません。しかしながら、今特に震災等が最たる例ですが、徳丸理事長のような“おとな”が社会に求められていると思います。

先ほどの記事に戻りますが、子どもたちの話しを聞いた役人側からすると決定権のない人たちなので“持ち帰る”という返答ばかりだったといいます。参加した役人が人間として個人という気持ちと、組織というなかでの意思との乖離はあるのではないか、そういった意味合いも読み取れる記事内容になっています。このシステムや構造の問題はつきまといます。

組織の意思に個人の思いをぶつける態度、これは子どもの頃から学ぶべき一つの習慣的態度です。しかしこれはわがままを言うという意味ではなく、思いをぶつける方法を学び、うまくやるべき手法を学習することにあります。相手側の意思はどのように形成されているのか、自分たちの主張は客観的(科学的か哲学的かなど)に見てどうなのだろうか、相手と自分以外に関係者はいないだろうか。こうした視野と、話し方等のプレゼンテーション能力も必要でしょう。そして記事の最後にも書かれている「子どもたちのために、勇気を出して戦ってください」というように“勇気”が必要になってきます。勇気をもって動くと、経産省の古賀茂明氏のように組織内から袋だたきになってしまう。(しかし有名人になってくると自然と周りが守り始める社会的雰囲気が形成されはじめています)ですから、そのときの覚悟と乗り越える術を考えていくことになります。これはやる側としてはかなり難度の高い行動になるでしょう。

徳丸理事長は、映画のなかのセリフでも垣間見えますが、大人になってからそういった人格や行動形成が出来たわけではなく、若い時に色々やっていた人物だという描写があります。やはり、10代から20歳前後の経験が最も大事な時期なのでしょう。この時期に、徳丸理事長タイプの人間に引き合わせてあげるような環境づくりが、特に子どもの世界に求められているのではないかと思います。そして、その子どもたちが未来の子どもたちに対して、徳丸理事長のような態度をもって接することができる“おとな”になってくれることで、社会が成り立つのだと思います。

想田和弘さんの「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」を読んで

Posted on | 7月 26, 2011 | 想田和弘さんの「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」を読んで はコメントを受け付けていません。

今や日本を代表するドキュメンタリー作家の想田和弘さんが、このほど『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)(以下;本書)を出したので、早速読んでみました。私と想田さんは、観察映画第二弾『精神』のジャパンプレミアだったか、ワールドプレミアだったかの会場が「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」であり、そのときの居酒屋ではじめてお会いしました。当時は『選挙』の想田さんとして知られていましたが、お顔を拝見したことがなかったので、最初はどなたか分からなくたいへん失礼をした記憶があります。しかしその場はかなり刺激的で、本書を読んでいるとそのときを思い出すかのようでした。

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そのようなご縁もあり、また北大のクラークシアターでも『選挙』『精神』の2作上映させていただいたこともあり、今回の書籍発売はかねてから楽しみの一つでした。新作『Peace』に沿った内容だということで、作品を拝見したあとに読みたかったのですが、それも今朝の想田さんとのtwitter上のやりとりで、さっさと読んでしまおうと思い、先ほど読了したところです。

想田作品は私から見ると「映像の論文」のような感覚を持っています。特に『精神』を拝見した時は、非常に難しい文章を読んでいる感覚があり、そのあとのティーチインを聞いていて、はっきりと映像の論文だと思ったことを覚えています。大学をいう舞台で映画の活動をしている自分にとって、「観察映画」という手法は、本書にも記述しているように「参与観察」という手法にかなり類似しています。今の学術論文の主流は、定量調査の回帰分析などを使って普遍性を立証するという手法が多く見られるのですが、数値化できない現象というものも世の中たくさん起こっているので、それらを表出化するのに映像というものの相性が良いのではないだろうか。そのようなことを予々思っていました。本書を読んでいてまずそこを再確認できたというのが率直な感想です。

本書の内容に少し触れますと、台本と分かりやすさを求める現在のドキュメンタリー報道に対する見解は、共感するところです。これまで報道番組の時間枠で何回か取り上げられた時の経験からも、この指摘される問題意識は強くもっており、真実を伝えることの難しさを考えさせられます。マスコミ関係者には特に読んで考えてみてほしい部分です。例えば二元論的な対立軸を作り分かりやすい演出ではなく、あえてグレーという想田さんの表現は、まさしくドキュメンタリー作家としての立ち位置として、観察なんだという強いメッセージを感じます。

作品が生み出される過程の偶然性から、人生は偶然の産物のようなくだりは、キャリア研究の分野で「プランドハプンドゥ(計画された偶然性)」といわれていることで、この考え方は人間のキャリアで考えていくべき視点と同じです。この矛盾した計画性と偶然性の両極なものを一つに融合する考え方や、善悪の真ん中をグレーといった表現などは、今日複雑化し多様化した社会のなかで生きていく術として必要なものの見方や考え方を捉えていると思います。その視点を「観察映画」というジャンルのもと、映像として切り取り作品化しているというスタイルは、時代を先取りしている感があります。

学生たちとの取り組みでは、よく分かりやすさや答えを求めてきます。例えば「どれくらい忙しくなりますか」「何をしたらいいのですか」とイベントや映画作品を作る計画や過程のなかで、時々質問が来ます。しかしながら、イベントも作品作りも未来を作る行為なので、やってみたいと分からないものは多分にありますし、なにかが起こります。トラブルが起きると解決するために時間をかけないといけないでしょうし、どこかで出会いがあればイベント企画内容が膨らんだりします。だからやってみないと分からない。想田さんの作品を作るスタイルも、まずは何か感じたらとにかく撮ってみるというスタンスも似ていると思います。

分かりやすさや明快さ、そもそも計画された台本どおりの動きというものを求めることと、やってみないと分からないという世界、これらをよく観察してほしいと特に若者には思っています。想田ワールドは、これから未来に必要な教材開発のエッセンスが凝集されているんだと、そういった思いを新たにさせてくれました。是非多くの人に本書を読んでいただければと思います。特に北大のスタッフメンバーには読んでほしいと強く思います。
そして札幌の公開はまだ先になりそうですが、新作『Peace』を拝見したいと思います。

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