教員力とその評価について
Posted on | 9月 6, 2010 | 教員力とその評価について はコメントを受け付けていません。
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昨日、産經新聞の記事「教師6000人を実名で「5段階評価」教組猛反発も政権は支持 米紙 (産経) 」をみてtwitter上で大学院時代との友人とやり取りがありました。このことについて少し考えをまとめてみたいと思います。
教員とは、子どもを評価する立場でありその評価機会から考えると、教員の力量を評価されるという機会はほぼないに等しいぐらい、あまり聞いたことがないと思います。ですから、教員評価が様々なアプローチで情報公開されることは望ましいと考えます。それは、質の高い教員を今後増やすための一つの方法であると考えられますし、子どもたちや両親からすると、ある程度は教員選択の自由機会を作ることを考えてもよいと思うからです。
しかしながら、その方策を作るとなるとかなり複雑で難しいと考えます。例えば今回のアメリカの件は、シンクタンクがデータ処理をした結果をロサンゼルス・タイムズ紙が公開するという仕組みです。様々な問題点が考えられると思います。
・ 評価システムに欠陥がないかどうかのチェックや信用はどこになるのか。
・ 他の指標が公開されないと今回公開される指標だけを鵜呑みにしかねない市民が生まれるリテラシーの課題。
・ 公開するにしても対象教員全員の公開はしなくてもいいのではないか。
他にも課題があると思いますが、今回もし仮に踏み切るとすれば、データ処理の方法を公開すること、ロサンゼルス・タイムズ紙以外のメディアからも発信すること、対象教員の全員でなく上位ランクのある程度の割合だけ公表するといった工夫措置、他の指標軸を作って同時に発表することなどが考えられると思います。今後、どこまで対応を考え行なうのかは見守ってみたいと思いますし、その後の変化にも注目すべきだと思います。
次に評価について「そもそも何をどう評価するのか」これは教育界の本丸といってもよい元々大きな課題です。今回記事の中だけの解釈では、学力試験をもとにしていることが懸念対象だと考えられます。教員の役目は学力をアップさせることだけではなく様々な育成をほどこしているわけですから、かなり偏っているといえるでしょう。そして今後間違いなく学力をはじめとする現在数値化できるような能力指標の大部分は、教員の力よりもむしろ教材の力にシストすると思います。例えば、ハーバード大学のようなトップレベルの講義が配信され自由にみることができる時代になってきたことを考えると、直接顔を合わせる教員という立場は、単なる知識を与えることではなく、むしろカウンセリングやファシリテーションのような役目を担うことの比重が増えていくと考えられるからです。そうなれば、評価という点において学力評価を基準にすることが時代錯誤にならないかと考えてしまいます。
一つ具体的な例を挙げましょう。数学の点数が30点アップしたふたりの子どもがいたとします。一人はA先生のもとで学びました。A先生は、数学の解き方を教えることがすごく上手で分かりやすく授業を展開することで定評のある人です。おかげで30点上がりました。もう一方の子はB先生のもとで学びました。B先生は数学の教え方は普通でしたが、数学を解く面白さをとにかく伝えるのに情熱を注いいたので、数学の勉強をすることが楽しくなり、結果30点上がりました。さてAとB先生とどちらの教員がより評価が高いでしょうか。Aでしょうか、Bでしょうか、それとも同じでしょうか。
もう一つは相性という視点です。子どもと教員はそれぞれ人間ですから当然相性というものがあり、その相性が良ければうまく能力を伸ばすことができます。学校といえども人間社会ですから、この相性の不一致からくる問題についてつきまとうでしょう。このケースで教員評価をどう考えるべきでしょうか。そこを加味した教員力の指標を考えると、たいへん広く深く考えられたものを作らなければなりません。
先の例で考えると、子どもの性格上Aの先生の方がいいかもしれないケースもあるでしょう。しかし、今後教材の質が上がるとB先生とその教材との組み合わせが最も適してくるのではないか。そういった推測はできると思います。
以上のように考えると、今回のカリフォルニアでの一件について、教員評価といったタブーへ踏み込むことは前進とみますが、その内容には非常に問題があると考えざるえをえません。
“まちづくり”が抱える4つの視点。
Posted on | 8月 30, 2010 | “まちづくり”が抱える4つの視点。 はコメントを受け付けていません。
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「街を元気にしたい」「地域をよくしたい」とよく聞きます。“まちづくり”と一言で括られるように言われていますが、いくつかの視点から問題点を整理して考えるべきだと思います。この一年数ヶ月あまり現場を通じて「地域経済」「高齢化」「文化教育」「安全」の4つの分野から考えてみることが重要であると思います。
地域経済が疲弊してきたという視点でよくいわれることは、外資系の大型スーパーが襲来してくると、地元の商店街が成り立たなくなるというケースです。そして、本社機能が首都圏や他の地方中心都市にあると法人税収で吸い取られる仕組みになっていることや、これらに連動する形で雇用が失わるか、より低所得になるということ、これら3つが考えられると思います。一部の地域では、北海道の炭坑の街のように基幹産業がなくなるというケースもあります。
2つに、高齢化については地方に行けば行くほど高まっていますから、人口減少社会に対応し始めることを考えなければなりません。高齢化に伴う問題は、孤独死や高齢者介護への対策を地域でどれだけ担えるのかが試されています。行政サービスの限界は、生存確認ができずに戸籍上生きている人がたくさん出てきたニュースからも垣間みることができます。また人口減少社会は一人当たりの所得が上がらない限り税収の減少を意味しますから、より多くの社会福祉予算を捻出できない以上、地域のネットワークで乗り越える環境が必要になってきます。
3つ目に文化・教育についてです。ある特定地域に学校がなくなると限界集落へのカウントダウンが一気に加速化します。学校がないことは子どもがいないわけですから、近未来にそこには人が住んでいないという予想できる最悪の事態に繋がっていきます。そして、昔は子どもが地域との関わりで学習できる環境が多くありました。盆踊りやお祭りへ家族共々関わりコミュニケーションを通じて人間関係形成などの学びや気づきに影響を与えてきましたが、これらの運営が立ち行かなくなってきています。家族構成の変化や共稼ぎなどで、これまで家庭内教育で得られた内容も学校や地域に押し付けられていることが、結果として出てきています。
次に地方が抱えている公共空間である会館等の利活用も含めて、地域文化や教育面での梃入れが必要になってきました。上記の地域教育環境を進めるためにも公民館などの空間を使うことが行なわれつつあります。そこでは、高齢者へ向けた生涯学習の機会を作ることもはじまり、健康を維持し、医療費削減等の効果も期待していくことになります。
最後に安全の問題です。防犯に対しても近所付き合いが深い地域は不審者の発見など、何かしらの対策を地域ネットワークで乗り越えてきました。お隣さん同士を知らない生活空間であれば、事件が起こらないと明るみにならないことが多く発生しています。犯罪の多様化や複雑化への対応を警察にお任せしても防げないことが多くなってくると考えられます。
これら4つの視点の関係性をよく観察し、問題解決アプローチを練り実行することが求められます。しかしながら、これらに寄与する行政セクションやNPO・企業もある特定分野を中心に活動しますから、総合的に問題解決をする人や組織がほとんど存在していないことになります。商店街は経済関連の心配をしますし、町内会は街の安全や高齢化のことを気にします。家族はその家族世代により、子どもの心配や高齢者の心配などそれぞれ関心を持ち、地域の学校は学校教育の視点だけに関心を持ちます。NPOは事業内容によりその分野を一番と考えるでしょう。これらの思考や視点を考えるのは当然のことです。これらを包括的に受け止めるべき行政組織は、内部組織で縦割りになり所轄が違うということで関係分野しか扱わないため、たらい回しにされることが多く、地方議員や組長は選挙の支持団体により、ある程度の分野に偏りを持つことが多いと思われます。
またこれらの4つの分野に対して一気に問題解決を図るのか、段階的に計画すべきか、その順番や手法は何か、これらは地域事情も加味しながら組長や担当行政の計画力や判断力と解決アプローチを行なう現場でのリーダーシップが大きく影響します。しかしながら、こうしたリーダーシップ能力を行政職員が何処で身につけ経験し磨き、そして実践としてまちづくりに実行するという流れが生み出されるのでしょうか。
社会イノベーションを促進し、地域コミュニティのソーシャルキャピタルを高める体制と仕組みを、関係各省庁の壁を乗り越えて、政府一体となって整備・推進することや、政府、企業、NPO等が協働で社会的活動を担う人材育成と教育の充実を進めることが重要であると考える (「新しい公共」宣言2010.6.4から抜粋)
この人材育成は、コミュニケーション能力の高い、それもより高度な人材が各自治体に数名以上配置され、それを活かせる組織や組長がいるという構造にならないといけません。この道のりは遠く険しいというのが実感です。
日本の高等教育が変わるきっかけになるのか?
Posted on | 8月 26, 2010 | 日本の高等教育が変わるきっかけになるのか? はコメントを受け付けていません。
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昨日、東京大学の安田講堂でハーバード大学のマイケル・サンデル氏の特別講演が開催されました。Twitterからの情報だと大盛況だったようです。今年は哲学ブーム到来ともいわれています。昨年までテクニカルな指南書が売れていた傾向が少しずつ変化しつつあるとのことです。これは非常にいい傾向だと感じます。大学の教養部の廃止や大学院重点化政策に伴い、近年高等教育では専門性や高度化が中心的な流れを担ってきましたが、この流れに逆風を与えはじめているのではないでしょうか。
以前、とある企業の方に産学官連携事業の失敗を伺ったところ、高度な専門技術や特許ではなくコミュニケーションが良好にできなかったという人として基本的なところで躓いたと聞いたことがあります。またイチロー氏をはじめとする世界で活躍するスポーツ選手の成功の秘訣が基本的な練習の積み重ねであることは多くのところでいわれてきています。今、専門性ではなく教養といった学問の基本を見直すいい機会がクローズアップされてはじめていることは、たいへん喜ばしいことだと感じています。
マイケル・サンデル氏の『これからの「正義」の話をしよう』や、ティナ・シーリグ氏の『20歳のときに知っておきたかったこと』は、世界最高峰のハーバード大学やスタンフォード大学の学部教養課程における授業を題材にした書籍で、いずれもベストセラーになりました。そして今回マイケル・サンデル氏の来日は大きな影響を与えてくれるでしょう。
私はかなり以前から大学において就職活動の3年生対策より、教養教育における「生き方」や「時間の使い方」などをしっかり学ぶべきだと思っていました。小手先のテクニカルな方法で就職活動を乗り越えてしまう学生が増える傾向に問題意識を持っていますし、実際教えている北星学園大学にも訴え、教え子である3年生以上からは、毎年1年生の時に授業を受けたかったとほとんどがいってきます。
私が思う両氏の授業の共通する特徴は「答え」を与えられ覚えることではないことです。良質な質問を繰り返し、質のいい情報を的確に提供するというそのパターンが洗練されていることだと思います。(詳しくは拝見していませんので推測の範囲ですがが、大まかにはそうだと思います。)そのような状況を授業環境内に多く取り入れる必要性を示唆しています。
私が行なっている北海道大学での取り組みは、ティナ氏の起業家精神育成に近い内容になっています。ティナ氏の授業は「封筒の中に5ドルが入っています。開封後2時間以内でできるだけ多く増やしてください。」といったような質問を与え、実際行動させてフィードバックするスタイルです。北海道大学の取り組みは「北大に常設化の映画館を作るためには何をしたらいいのだろうか?」この問いに対して学生が反応していきます。組織を立ち上げ、事業を企画運営し、しかも数年間かかるプロジェクトへ育て上げ、後輩にあとを託す仕組みを作り、受け取った後輩が試行錯誤し、改善して新しい創造を積み重ねる。毎日、長い人はこの質問に4年間も付き合うことになります。ただし正規の授業との連動はまだされていませんし、向き合っているのは私自らも参加している立場です。課外活動の一環としての範囲に限られていますが、一般的なサークル活動を凌駕しているとはいえると思います。
この活動のなかで授業のようなスタイルを行なえる場は、会議という名の打ち合わせ空間です。そこでの良質な質問を的確に行なうことで、創造性に豊かさを与えていくことが可能です。私はこの会議への準備と運営とフォードバックをよく学生に問いかけるように心がけています。そして、その足りない部分をメーリングリストなどの方法を使って行なっています。年間約4,000メールのやり取りをします。
こうした経験からも両氏の発言には共感できることが多く含まれています。是非とも日本の高等教育に変化を与えるきっかけが出てくることを願います。
なお、東京大学の特別講演の模様は、10月下旬にNHKで放送されることや東京大学のiTunesUで配信されるということですので、楽しみに待ちたいと思います。しかし、これら世界最高峰の授業が映像で配信され、誰でも学ぶ機会を得ることになりますと、大学の授業の意味も変化しはじめます。別のテーマになりますが、デジタル社会の最も特質すべき状況が生まれつつあることも同時に考えなければなりません。
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