関係拡張を形成する信頼を学ぶ場
Posted on | 12月 29, 2010 | 関係拡張を形成する信頼を学ぶ場 はコメントを受け付けていません。
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学生に様々な活動を通じて「ネットワークの構築」や「チームワーク」を教える過程で“信頼”や“信用”という言葉が飛び交うことがあります。そのとき、自分のいっている“信頼”と学生のいっている“信頼”という言葉の意味に違いを感じることが最近多くあります。よくよく考えると、人と人との関係における信頼や信用について、そのメカニズムを知らないで使っていることに気がつきました。そこで“信頼”とは何か、少し考えてみたいと思います。
北海道大学の社会心理学者山岸俊男氏の『信頼の構造』(東大出版)の冒頭には、集団主義社会は安心を生み出すが信頼を破壊するといった綴りからはじまっています。この言葉からすぐに連想したことは、学生は安心を生み出すことに躍起になっていて、信頼を破壊しているのではないかという視点です。
北大映画館など他の学生サークルも含めて観察していくと、仲間を作ることとその組織の目的を達成するために活動する人とに二極化する傾向があります。学生サークルですから、大学入学時、友人知人を作ることを目的として加入してきますので、動機としては普通のことです。しかし、各サークルには活動目標があります。大会に出て試合に勝つことやコンサートを開催することなどその活動目的は多岐にわたります。その目的にⅠ年生はどんどんコミットしはじめる、個人が組織文化に馴染んでいく過程があるのですが、なかには順応せずに、個人の目的である仲間作りを中心に活動していく人が現れます。組織のリーダー層は、そういった人が現れると組織目的の遂行のためには足かせになることもありますから、葛藤をしばしば起こすことになります。この個人目的の学生が多数派になりはじめると、組織のリーダー層の意識が引っ張られ、本来の目的と手段が徐々に逆転します。そして組織の活動意義が低下し存在感を薄めていくことになっていきます。
この仲間作り中心の文化は、信頼関係を構築しているというよりも、居心地の良い場所を一緒に作っていこうという風潮にみてとれます。つまり、集団主義社会化を強く進めていく組織文化を、学生サークル内に形成している過程が見られるのです。その傾向が、信頼を破壊するという後半の言葉への影響を懸念することに繋がっていきます。
この学生の動きは年々早くなってきているのではないか、というのが私の感想です。その理由として考えられることは、一つに社会的背景が原因であると思います。地域や家庭が閉塞感を増す社会のなかで育ってきた子どもたちが、自分の居場所(安心した空間)を求めている傾向が強まっている、つまり大学に入学しその場所をサークルに求めているという視点です。もう一方で、若者のリーダーの傾向が、より高い目標設定を自ら設定しガンガンやるといった行動派スタイルではなく、目標をある程度下げてでも組織内葛藤の起こらないような仲間への気遣いを強める傾向があるということです。これは前者の社会的背景の影響もあるでしょうが、小中高での部活動など課外活動経験が少なくなってきたということもあるようで、リーダーシップや目標意識など、組織活動経験そのものの量が少なくなってきたからではないか、と考えられます。何よりも人との葛藤を嫌う傾向が強まっているのではないでしょうか。
しかし、この安心を作り出すことで信頼を破壊しているということはなんなのかを考えなければなりません。北大映画館の活動ケースにおいては、他者(大学・スポンサー・映画関係者など)との関係構築における信頼が築けないということを指しています。集団主義化する傾向は、他を寄せ付けない壁を自ら形成しますから、他者が入りこみにくくなり、組織内から外へ積極的に出向く機会も減少します。当団体の場合は、他者協力がないと活動目的やイベントを構築できない仕組みになっています。ですから、この傾向が起こりにくいと思っていましたが、どうもその仕組みの意味を先輩から後輩に説明できていないと思う節があるということもあり、どんどん集団主義化しているようです。
この他との関係構築における信頼も含めて話している自分と、安心を目指している傾向の強い信頼を話す学生とのなかで、同じ言葉を使っていても噛み合ないわけです。これが最近続いているということなのだと感じました。
さて山岸氏は、今後の日本社会のあり方を考える上で、集団主義的な、仲間内でかたまって協力し合っていくやり方ではうまく機能しなくなると指摘しています。“信頼”について、これまで関係強化の側面に目を向けられてきていますが、人々を固定した関係から解き放ち、新しい相手との間の自発的な関係の形成に向かわせる関係拡張の側面を同時にしていくべきだろうとあります。
これは学生組織だけではなく、まちづくり分野の地域社会でも似たような傾向が見受けられ、今後乗り越えるべきポイントであると感じます。この関係拡張における信頼形成できるような、そうした道徳観や行動力を身につけることが重要だと気づかされるのです。
「カタリバ」という授業
Posted on | 12月 16, 2010 | 「カタリバ」という授業 はコメントを受け付けていません。
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先週、都立大山高校の「カタリバ」という授業を見学させてもらいました。「カタリバ」とは、設立当時大学生だった今村久美さんと竹野優花さんがスタートさせた、大学生が高校の授業に参画して“語り合う”カリキュラムを企画運営するNPOです。著書『「カタリバ」という授業』によると、その設立から今日まで様々なドラマがあり、ここにきて全国展開がはじまったところです。詳細は、書籍を読んでいただきたいと思います。 Amazon.co.jp http://p.tl/RF3O
「ナナメの関係」をキャッチコピーに、大学生チームが約2ヶ月の準備期間を経て、2時間前後の授業に望みます。体育館で行なわれるワークショップスタイルの授業は、大きな“きっかけ”を高校生に与えていると同時に、教える側の大学生のキャリア形成にも大きな効果をあげていると感じました。同じ授業を見学した神戸の高校教師の方も「感動しました」という感想を述べています。
今村さんが言うには、多くの高校生には“きっかけ”を与えることができているけど、その次の展開を示すことができないでいること、そして“きっかけ”を与えることができない層への壁を感じているといいます。しかしながら、これまでの高校教師ではなかなか行き着けなかった領域を与えているその効果は非常に大きいだろうし、カタリバだけの活動で高校生の育成を全般的に見ていくことは難しく、すべきではないと思います。今後2つの壁については何かしらの仕組みづくりが必要だと思いますが、他者との連携によるところが大きく、現在の方針でどんどん展開してほしいと思いました。
よく考えると自分の高校時代は「ナナメの関係」のなかで育ってきたとふと思い出しました。クイズ研究会の活動中、道内の高校世代の仲間だけでなく、多くの大学生サークルの方々と交流をし、社会人も混ざってテレビ番組の予選会などによく出場したものです。あれは「ナナメの関係」だった。その時間の過程は大きな影響を与え、それがなければ腑抜けな高校生活だったと思います。今村さんのいう“きっかけ”から次の展開という視点は、自分の環境では作り出していたということからも、確かに“きっかけ”だけでは、効果がまだ未完成といえるのもうなずけるところです。
一方で大学生の取り組む姿勢に大きく興味を注がれました。リアクションが高く声が大きい彼らの元気のよさには圧巻させられました。高校生への意識付けがミッションである彼らの立場からすると、自らのテンション作りには相当意識しているという、基本的なところをしっかりしているところは大切です。約2ヶ月の大学生チームは、リーダー格のメンバーがおり、その下に「キャスト」といわれる学生スタッフがつきます。だいたい50名構成の組織で企画運営していく。そのスタイルと北大映画館の取り組みとを比較すると元気の良さについては段違いに感じました。また隣の県など遠隔地から毎日のように企画準備に参加する学生もいるということで、コミットメントの高さやその魅力作りにも驚きました。
自らの高校時代を振り返りながら高校生にどう接すべきか。その最初のアプローチに自らの経験を内省するといったスタイルは、学生自らのキャリア形成に非常に効果的ですし、教える立場に立つといった経験からの学びは、より質の高いものになると見て取れました。残念だったのは、終了後に反省会を行なうのですが、大学の授業のためにすぐに移動して去っていくキャストもいます。これは課外活動の限界だと感じますし、北大映画館でもよくある光景です。こうしたやりっ放しをなるべくしないためには大学側との連携が必要だとは思いますが、まだまだ先の話になるのだろうと思います。もちろん既存の授業も大事ですが、この経験の振り返りは質的なものからいってもったいないと言わざるを得ません。
授業後の振り返りでは、それぞれの対話の中身を発表しながら問題点を共有し改善点のきっかけを見つけ出すことを重きにおいて行なわれていました。限界点への改善策は当然出てきません。これは難しい視点でしょうし、内容から伺うにはスクールカウンセラーの領域の仕事だと感じました。
今回は当日だけの視察で、準備の過程と終了翌日以降どのような対話を学生がしているのか、また高校生はどう受け止めているのか、非常に気になるところです。しかし約半日の視察は大きな“きっかけ”を自分にも提供してくれたと思います。帰り際、学生と共にご飯を食べに池袋まで出かけました。それぞれ色々な“きっかけ”で参加しはじめた経緯を聞きました。北海道と違い狭いエリアに多様な大学があるため、他大学生間ネットワークの強みがあること、非常に羨ましく思います。しかし札幌も比較的多くの大学が点在している場所であることは確かで、もっと効果的な仕組みづくりの可能性が生まれるのではないか。今後、北海道にカタリバスタイルを導入するときの一つの目標なのかと思いました。
この「カタリバ」は全国に展開しはじめています。北海道ではこれから我々が行なうことになるのですが、首都圏と地域の差による違った課題や方法が見えてくると思います。それらに挑戦するのが来年以降の一つの取り組みになっていきます。
大学生と映画を作る(ケータリング編)
Posted on | 11月 16, 2010 | 大学生と映画を作る(ケータリング編) はコメントを受け付けていません。
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昨日、北海道情報大学にて「メディアデザイン論」の授業の一コマを任されました。「映画をプロデュースする」という視点で話してほしい。そのようなオファーを頂いて野幌(北海道江別市)まで足を運んでいます。
自分は、はじめての大学でお話をする時に、それぞれの大学の文化が違うためにアプローチをたいへん気にするタイプです。いつもそこを難しく感じています。そこで最初はオーソドックスに自分の紹介を兼ねつつ、色々なことに着手した経験からプロデュースという思考パターンに至った経緯を何となくでもいいから感じてほしいと話をし始めていきました。しかしどうもリアリティがないようで、だんだんつらくなりつつありました。しかも映像系の学科にも関わらず、意外と作家さんや役者さんを知らない。色々な人物を上げてもあまり反応がありません。世代間ギャップかと思いました。
そのようななかで、映像を作る現場でのお金の使い方に話が移り変わった時、反応がよくなりはじめました。ロケ現場では、交通にかかる移動費と食費が時間とともにどんどん無くなっていきます。ロケの最前線にいる監督や役者、カメラマンの場所とは少し離れたところで、何が行なわれているか。その話に興味を持ちはじめました。
映画のロケ現場では何十人という人が動きます。『零下15度の手紙』ではエキストラ待機なども含めると、一時的に100名以上の人が映像を撮るために何らかの動きを行ないます。そこでお弁当を出す出さないやメニューの話をしました。例えば、50名にお弁当を出すという展開があった場合、一人500円のお弁当にペットボトルをつけると一食3万円になります。これを3食揃えると9万円になります。珈琲や茶菓子などを用意すると合計で10万円ぐらい1日でかかることになります。5日間ロケすると食費だけで50万円になります。そこで、食費担当のケータリング班が少し工夫をしはじめます。100円安い弁当を探し工面するだけで1食5,000円の節約になります。1日15,000円、5日で75,000円の節約になります。ちょっとした判断で制作費に大きく影響を与えることが分かってきます。大きな制作チームはプロデューサーの元にラインプロデューサーが立ち、その下にケータリング部門の担当者がつきます。小さな映画チームだとプロデューサーが全てを兼ねて行なうことになります。この予算の判断など細かなところでのお金の使い方の工夫が大切なことだという話をしました。
『零下15度の手紙』の現場ではカレーライスにカツを入れるかどうかの判断をしたケースを紹介しました。早朝から深夜までのたいへんな作業のなかで“肉”を補給するかどうかの判断です。現場では自分とケータリング班とで議論して決めました。金銭面と全体の士気や体力を考慮してカツカレーにした話には、反応よく学生が聞いてくれました。倹約するだけではなく、ちょっとした奮発する時もある、その判断を毎回している立場だということを少しは感じてくれたと思います。これらの小さな動きの積み重ねが、作品のクオリティに影響するということを気がつけると、いい作品を作るという意味を違った側面で感じてくれるのではないでしょうか。
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